鏡よ、鏡……………。
春だ。いよいよ狂犬病やフィラリアシーズンに突入。
なんだか慌ただしい日が続いている。
先日も、忙しさにテンパったのか、新入スタッフの一人がひどく手間取っているように見えた。
いけないいけない。
このままでは慣れない仕事でストレスをためてしまうぞ。
スタッフに辛い思いをさせてはいけないいけない。
なんとか緊張をほぐさなきゃ。
すぐに、最大限のもてなしを考えつく。
いっちょリラックスさせたるか。
よし。
「あっち向いてホイでもしたろか?」
ありゃりゃ。
なんかおかしい。
新人スタッフはなぜだか浮かない顔つきだ。
それも、とても困った表情をしている。
今にも泣きそう……………。
ど、どうした。
なんでそんなに困惑しとるんや。
末長く返答を待ちかまえていると、彼女がようやく口を開く。
「あ、あの…まあ、その…………遠慮させていただいてよろしいですか」
こらぁー。
ちょ、ちょっと待ってえ〜。
なんでやの。
なにを遠慮する必要があるの?
君だって、あっち向いてホイしたいだろ?
えっ。ちゃうか?
え、そんなにしたくない?
あのな、ええか。
これから一緒に仕事をしていく上でコミュニケーションはとっても大事だぞ。
あっち向いてホイでもしたら、きっと君もなんだか妙にうきうきと楽しくなって、仕事が長続きするぞ。
な、わかるか?
「いやいや、そういうことじゃなくて……………」
「いやいや、そういうことだ」
トリマーさんの遠慮と緊張を同時に解こうと、長々と説得を続けていると、いつだって余計なことばかりしやがるツンドラが慌てたように間に入ってきた。
「先生、トリマーさんが困ってるじゃないですか」
「なんで困る? あっち向いてホイは楽しいぞ」
「楽しいとかそういうことやなくてですね……まあ正直なところ、先生がしたいだけでしょ」
「……………いや」
「ほら、嘘ばっか。顔に出てるやん」
「出てへんて」
「もうええから」
「なんでええの?」
「ええから、私たちの邪魔せんといてください。忙しいんです」
「わしだけ邪険にすなよ……………」
「もう! あっち向いてホイくらい、一人で鏡とやったらどうですか!」
そう言って、ツンドラは彼女の腕裾を引き、無理やり私から引き離していく。
ちょ、ちょっと待て。
えっ?
どういうこと?
わしがあっち向いてホイをしたい?
この歳で?
そ、そんな、バカな……………。
な、なんで、バレたんやろ……………。
けんもほろろに突き返され、途方に暮れるも、いや待てよ。
もしかして、ひとりあっち向いてほーいも、やってみたら案外おもろいかもしれんな。
だいたい、ひとり焼肉だって流行ってる時代やからな。
よし、ええこと聞いたわ。
ひとりでやったろ。
よしゃよしゃ。
ウキウキしながら一人、待合室のトイレに行き、大きな鏡と向き合った。
「では、おぬし、覚悟せえ」
鏡に映る自分に向かい、私は気合いを入れる。
おお、なんだか相手も妙に気合いが入ってんぞ。
ダハハ。
私が笑えば、あいつも笑う。
な、なんだ、てめえ。
てめえこそてめえ。
なんやとぉ。
お前こそ、なんやとぉ。
くそ、お前、わしを挑発する気か。
お、おまえこそ。
アホみたいな顔しやがって。
お前もやないか。
くそ、なんと不敵で、憎き奴め。
お前こそふざけた顔の、にっくき奴だ。
そこまで言うか。
言うとんのはお前やろ。
腹立つやっちゃな。
ええか、ほんまに覚悟せえよ。
お前もじゃ。
いつぞやの阪神みたいにボロボロになっても知らへんからな。
お前こそ、藤浪みたいにボコくそにされてもしらへんぞ。
鏡の中の、とってもとぉ〜ても見てくれの悪いあいつは、私に向かって、思いつく限りの言葉で罵ってきやがる。
くそ。
もう我慢できへん。
ほんならいくで。
じゃんけんポーン!
と声をあげたものの、あれれ。
ど、どうしたというのだ。
どれだけ、繰り返しても『ホーイ』ができない。
待て、こらぁ。
なんでや。
まさか、まさかの非常事態やないか。
な、なんちゅう強敵。
何遍繰り返しても、あいこばっかや。
わしは『あっち向いてほーい』をしたいだけやぞ。
なのに、こいつ、一度も言わしてくれへん。
いつまで経ってもあいこなんてアホやろ。
なな、なんでなんで〜。
私は、鏡を前に呆然とする。
お、おしえてくれ。
ど、どういことなんだ。
「ああ、鏡よ、鏡……………」
決まり文句を口ずさむ。
でも、鏡は何も言ってくれない。
それどころか、あいつはハアハア、息弾ませながら、わしを同じように見ておるだけや。
その代わりだ。
トイレの外から誰かが言う。
「ばーか」
お、おい……………。
だ、だれ?
ま、まさか、新人スタッフまで、わしのことを……………。
ツンドラだけでなく、あいつらまで?
えっ。
ま、まさかまさか。
そんなバナナのばななのbananananana……………。
これは、ツツジ麗しき春の、ちょっと浮かれたお話です。
どうでしたか?
ほっこりしていただければ、これ幸いです。
誰がすんねん!
2023年04月24日 17:23