どうなってんだ?
単なる脅しだと思っていた。でも、それは大きな勘違いで、今もこの時間に、遠い異国では信じられないような光景が続いている。
不思議なことに、侵攻と時を同じくして、なぜだか急に慌ただしくなった。
緊急の手術が入り、そのすぐ後に別の患畜の入院が入り、また手術で……。
夜はつきっきりの状態で、日中は診療の継続‥‥。
休む暇もなく、バタバタと。
その間、戦禍の状況がどうなっているのか、西側がどう対処するのかまともに見ている時間もなかった。
ただ、時折パソコンでBBCニュースを覗くと、侵攻はやはり止まることなく、拡大する一方で…。
目にする光景は、それはそれは見るも無惨なものばかりだ。
原発施設が攻撃を受け、学校や病院までもが標的にされている。
通りでは、乗用車がせんべいのように戦車によって圧し潰されていた。
古風なアパートメントには、大量に浴びた砲弾の弾痕が残され、悲鳴のような煙がもうもうと上がっている。
街路樹は焼け焦げ、街並みは変貌し、瓦礫の山を人々が彷徨っている。
あちこちで煙が燻る中、誰かを探して咆哮していた。
そして空襲警報が鳴り響き、地下壕に向かって一斉に走り出す。
今もライブ映像では、火の粉が雪と共に舞っている。
傷んだ街並みに、雪が悲しくなるほどに降り積もる。
包み込む氷点下の寒さがことさら事態を重く、辛く映し出す。
そして、こうしている間も……。
戦況は日毎に激しくなっている。
たけ狂った軍隊の牙は、剥き出しのまま、無慈悲なまでに日常を噛みちぎり、今もなお市民たちを襲い続けている。
明らかにウクライナは混迷を極めている。
昔、ソビエト連邦が崩壊した時のことを思い出した。
独立国が次々と誕生していく様は、何か神秘的なものを見ている気がした。
世界地図に新しい国境線が引かれていく。
それはまるで受精卵のようだった。
ロシアを極として、新たな命が生まれ、胚となる。
卵割は南西に向かって次々と活発に広がっていき、そして数年間続いた小刻みな分割は一旦穏やかになり、素人目に安定したように見えた。
でも、違った。
2.24。
20年前近く前に描かれた国境線が、この短き時間の内にみるみると歪んでいった。
それはあたかも、紙に書いた鉛筆の線を安物の消しゴムで擦ったかのように。
ぐしゃぐしゃに。
びりびりと。
境界線が無理やりに消されていく、その地図までをも引き破る勢いの生々しい異音が、この耳にもはっきりと聞こえてくるかのようだ。
もう、あの時、感じた新たな命の誕生など微塵にも感じさせない。
その逆。
凄惨を極めている。
こいつはがん細胞と同じだ。
同じ進行の仕方じゃないか。
手に負えない君主が詭弁を弄し、軍隊を使ってウクライナを侵す。
皇帝の口から放たれたがん細胞は、みるみると増殖を続け、国境を超えてはみ出していく。
隣接する正常細胞の壁を壊し、都市部へと浸潤を続け、さらには砲弾という凄惨な毒をあちこちにまき散らして。
傲慢と強欲にまみれた腫瘍が、瞬く間に、正常な街と人を破壊し続けていく。
人々は泣き、逃げ回る。
子供たちは怯えている。
動けない老人が頭を抱え絶望している。
薄暗い地下のシェルターで。
凍てつく寒さの真冬の森の中で。
彷徨い、ふらつきながら。
もしくは電気もガスもない廃墟の街に瓦礫と一緒に埋もれながら。
こんな凄惨な仕打ちは、人々の心に恨みや憎しみ、怒りしか生まないはずだ。
流された涙や大量の血は、やがて怨念となる。
そして肥沃な大地にべっとりと染み付き、根強く心にへばりつく。
雪解けのようにきれいさっぱりと消えやしない。
いまだに隣国といがみ合いを続ける我々の歴史を振り返ってもわかることだ。
ならば、いきりたつ君主を鎮めるにはどうすればいい?
相手は核を後ろ盾にした皇帝だ。
粛清を常套手段とする。
蛇蝎のごとく、挑発的に睨みを効かす皇帝を前に、側近たちはこわばった表情で萎縮し、声さえ絞り出せない。
西側の共同体も大戦へ発展することを恐れ、手も足も出せない。
誰ひとり、答えを出せず、報復を恐れ、巻きぞいにならぬことをひたすら望んでいる。
そして、その間も、ウクライナは東西の防波堤にされ、押し寄せる巨大な津波にただ独り懸命に耐え続けている。
残念ながら…。
考えても考えても…。
たとえ誰が何を言おうとも…。
プーチンという傲慢で強欲な、一塊のがん細胞を効果的に抑制できる特効薬などなさそうだ。
一体、世界はどうなっていく?
苦肉の策として講じた経済制裁が、真綿となり、暴君の首をジリジリと締め上げることができるのか。
それとも次々と繰り出す包囲網が、たけ狂う皇帝の激情をより一層たかぶらせ、彼の心をますます頑迷にさせるだけなのか。
そして、その結末として、砲弾の嵐が世界中で吹き荒ぶことになるのか。
それとも地図上からウクライナという肥沃な土地を抹消するのか。
相手は、コロナを凌ぐ脅威的な存在だ。
核を用いて、世界を一気に破壊へ導くこともできる。
心配と不安は尽きることなく、私たちは、事の成り行きをただ見守っているしかできない。
今日も世界の安寧が蹂躙されていくのを、ただじっと息をのんで眺めている。
そういえば、先日、図書館で偶然に手にした書物に、こんな一節があった。
〜村や町を破壊し、包囲し、圧政者として一般に知られる人。彼を賤しい人であると知れ。〜
二千年前以上に書かれた書物とのこと。
時代は進化したようで、人間の本質に変化はないらしい。
ああ。
荒ぶる暴君を鎮めることの、なんと厄介なことよ。
今日も地球が壊れていく。
ギシギシ、ガタゴトと。
砲音と悲鳴を響かせ、異音を軋ませながら。
人間がこの世界を回している?
はっ?
バカを言うな。
だとしたら勘違いもはなはなだしい。
地球の運転など自然に任せておけばいいのだ。
でなければ、こんな悲劇など起きなかったはずだ。
強欲と浅知恵をつけた人間による支配が、滅亡の方角へと、この世界をまっしぐらに進めている。
地球は勝手に自転する。
生物だって自然に呼吸する。
国境なんて必要ない。
土地の所有などしなくていい。
誰の束縛も支配も必要ない。
我々が支配する必要などなかったのだ。
ソフトもハードも必要ない。
人間が作りだすシステムほど脆弱なものはない。
なぜなら、どうせ凶暴化した軍隊が全てを破壊する。
なんなら、この世に、人類など存在しなくたっていい。
こんな我らのレゾンデートルが、ロシアの暴君の振る舞いで、惨めなまでに証明されようとしている。
そうでないことを、ひたすら祈る。
願いながら、一見まだ平穏を保っているこの街並みから、戦禍をじっと見つめている。
2022年03月10日 19:56