今年の漢字
日曜。
近くの公園へ行った。
風は強く、
空は晴れ。
人はほとんどいない。
落ち葉を踏みしめ、芝生の広がる千里の丘に立つ。
見下ろすと、タイワンフウが赤く燃えていた。
今年の漢字は「金」らしい。
スタッフがスマホを差し出し、言った。
「これ、読めますか?」
「いいや」
首をひねる。
達筆なのか。
それとも弘法にも筆の誤りか。
まあまあまあ。
なんせ清水寺の最高位の貫主が揮毫したものだ。
凡人にたやすく読めるはずはなかろう。
第一、金というもの自体がそういうものじゃないか。
カネと読もうが、キンと読もうが、
そいつが目の前に置かれた瞬間、心が俄かに揺れる。
目は眩み、右に左に惑わされたあげく、
己を見失って、足元を掬われる者だっているくらいだ。
まさに魔物のような存在。
おいそれと凡人に扱えるものではない。
たやすく読めるはずはなかろう。
そう考えると、合点がいくか。
しかし
なにか腑に落ちない。
だって今年の自分にぴたりと当てはまるか?
いいや、全然しっくりこない。
では、合致する漢字はなんぞや。
首を傾げるまでもなかった。
「壊」だ。
今年、いろんなものがたくさん壊れた。
新年早々、能登が壊れた。
テレビをつけると海も川も、民家もビルも倒壊していた。
あの無惨な景色を見たとき、言葉が出なかった。
数日後。
今度は自分の周りでものが壊れ始めた。
まずはエコー診断装置。
焦った。
予約を受けていた心エコーができない。
頭を下げ、来院した飼い主さんに引き取ってもらった。
心電図も壊れた。
メガネも壊れた。
テレビも壊れた。
そして次は車だ。
むちゃくちゃに壊された…。
ことの発端はコロナ禍。
二年前の春。外出自粛モードが漂う中で問題が起きた。
まずは近くのゴミ捨て場。
収集時間外に生ゴミが出されることが頻発した。
早朝、カラスに荒らされる。
道路に散乱する生ゴミの、まあひどいことったら。
毎度のこと、後片付けをするのはこっちだ。
本人はなにくわぬ顔。
周囲の住民が注意してもまったく効果はない。
攻防が続く。
道路に散らばったゴミを見るたびに、ため息が出た。
そうこうする内に、
隣の書道室に通う子供たちの自転車が軒並み倒されるようになった。
ここらは民家が密集する地域。
隘路のような、狭い道路に子供たちの自転車を停める場所もない。
隣同士のよしみで、
当院の敷地内に子供の自転車を止めてもいいですよと了承していた。
その自転車が軒並み全部倒されている。
それも、無風の日に。
教室の人が私に問うてきた。
「これ、先生がやったんですか」
その目は明らかに私を疑っていた。
言われもない容疑に
「いやいや」と必死で釈明した。
そしたら今度は当院の患者さんたちの自転車まで倒されている。
絶対、あの人だよね。
実際に倒すのを目撃した人も現れた。
やっぱり、あの人か………。
皆、口々に「困ったね」と呟く。
だって、注意したところで聞かないもんね
そうそう。あのひと危ないもんな
突っかかってきたら面倒や
相手は同じ建物の三階に住む独居老人。
七十代。仕事はしてない。
奇行が目立つ。
三階の障子紙はびりびりに破れ、外から丸見え。
時折、奇怪な大声が聞こえるので、周りはみんな避けていた。
ほぼほぼ誰も寄りつかない。
親戚からも見捨てられている。
いやいや。
これは困ったで。
そうこうするうちに、三階に住む老人は
診察中にたびたび当院に乱入するようになった。
突然やってきては「自転車が邪魔だ」と
待合室にいる飼い主さんに食ってかかる。
犬はわんわん。
猫はにゃーにゃー。
老人はそれでもかまいやしない。
唾を飛ばしてわめくわめく。
あのコロナ禍に。
マスクもしないで。
診察室から飛び出し、注意すると、
目をひん剥いて、私にくってかかった。
だいたいな、お前に駐車場を貸した覚えはないで。
室外機を勝手に置くな言うたやろ。
どかさんとほんまに壊したるからな。
車を傘で叩き、
室外機を足で蹴飛ばした。
散々に怒鳴り散らした後、三階に足を引きずりながら戻っていく。
私にはもう対応できない。
警察、親戚の方、そして弁護士に間に入ってもらった。
契約書を見せ、問題ないことを確認してもらう。
その上で、念書を取らした。
騒がない。暴れない。壊さない。
一旦はそれで落ち着いた。
だが、
実際は心が落ち着いたとか、
問題は解決したとかそんな生優しいものじゃなかった。
老人を見るたび、胃がキリキリした。
なんせ相手は大家。
下手なことは言えない。
何か言い返せば、必ず「でてけ」と言われる。
ああ、できるもんなら出て行きたいさ。
あんたの下にはいたくないよ。
だけど、費用がいんねん。
動けへんねん。
階段から降りてくる姿を目撃するたびに内心ひやひやした。
視線を合わせないようにしてやり過ごす。
変なことをしてこなければいいなと願うしかない。
それがここにきて、まただ。
どかん、とやってくれた。
11月11日の1並びの日。
今日は縁起が良さそうだ。
機嫌よく出勤して、目を疑う。
車がみごとなまでに壊されていた。
前後のナンバープレートは引きちぎられ、
ワイパーもサイドミラーもあらぬ方向へ折られていた。
車体は傷だらけ。
冷え冷えとした秋の早朝、呆然と立ち尽くしかなかった。
こんなことをする人間は他にいない。
頭を抱えていると、隣の人が窓を開けた。
こちらを見て苦笑いをしている。
「あの人ですか」
「他に誰がおんの?」
真夜中にバリバリとものすごい音が聞こえたそうだ。
だが、怖くて窓を開けられなかったらしい。
そりゃ、そうだ。
闇バイトで世間が怯えている時だ。
窓を開けて、「おいこら」なんて注意できる人なんていない。
すぐに警察を呼んだ。
現場を見た警官は一言。
「こりゃ、ひどえな」
だが、こちらがなんと言おうと、
証拠がない限り動けないと言う。
これか。
民事に介入しないというのはこういうことか。
切羽詰まった。
心が乱れに乱れた。
焦っているうちに、患者さんがやって来た。
そんな時に限って、ひっきりなしに電話が鳴る。
次々とやってくる飼い主さんの応対にスタッフが追われた。
完全に浮き足だった。
警官に呼ばれては、診療の合間に外へ出た。
野次馬が集まっていた。
郵便局に来た人たちが、現場検証をみつめ、ひそひそ声で話している。
変な噂話をされるかと思うと、肩身が狭く、とても辛い。
恨めしげに三階を見上げると、
開けっぱなしの窓からはいつもの喚く声…。
はああ。
次はなにをすることやら。
患者さんに危害を加えなければいいが…。
それから毎日のように頭を悩ませることになった。
そして、ちょうど一ヶ月が経った先週の火曜。
手術を終え、遅めの昼食をとりに行く。
戻ってくると、車のワイパーに一枚の紙が挟まっていた。
なんやろ。
紙を持ち上げると、
「ドケナイと壊す」と書いてある。
殴りつけたような乱雑な字だ。
ご丁寧に『警告』と書かれている。
おまけに本人の名前入りだ。
こりゃ、夜中にまたやるな。
近隣の住民の手を借りようとそのまま病院を飛び出した。
その間、10分も経っていない。
隣宅に行き、対策を練っていると、
いきなり、バリバリバリ。
とてつもない大きな音が当院の駐車場から聞こえてきた。
慌てて窓をあける。
足をひきずり、大家が逃げていくのが見えた。
こんな真っ昼間にやるか?
目の前が真っ暗になる。
慌てて隣家を飛び出し、階段を駆け上った。
追いかけたものの、遅かった。
玄関ドアはぴしゃりとしまっている。
警察を呼んだ。
またしても事情聴取。
来る警官ごとに何度も同じ話をするはめになる。
そうこうするうちに午後の患者さんが来院し始め、頭も心も混乱。
私だけじゃない。
スタッフもてんやわんや。
待合には飼い主さんと動物だけでなく、お巡りさんも刑事さんもいる。
それから大家の親戚も来て、もうむちゃくちゃだった。
診察後、警察と話した。
「先生、本人がこう言ってますけど、事実ですか?」
聞けば、
「あいつとは賃貸契約を交わしてへん」
「お金を一度も振り込まへんねん」
「あいつは一階を勝手に占拠してるんや」
そんなバカな。
事前に用意していた契約書のコピーを警察に見せた。
振り込みだって一度も怠っていない。
嘘だと言うなら、管理会社に聞いてくれ。
すぐに警察に裏付けをとってもらった。
警察からその旨を本人に伝えてもらう。
だが、警察が何度本人にこのことを説明しても、五分後には振り出しに戻るらしい。
刑事さんが首を横に振った。
こりゃあきまへんで。
あの人、また同じこと言うてますわ。
話がまったく通じませんな。
ありゃ認知も入ってますな……。
私も三階に向かった。
大家がお巡りさんに囲まれている。
私に気づいた老人の顔色が一変した。
「おりゃあ!」と私に掴み掛かってくる。
痩せさらばえた老人が目をひん剥き、顔を真っ赤にして「金払え」と叫ぶ。
複数の警察官が食い止めてくれるも、こっちは訳もわからず、目の前の老人が暴れる姿を呆然と立ち尽くして見つめることしかできない。
結局、以前から抱えていた統合失調と認知低下の問題で、逮捕ではなく、強制入院という形に落ち着いた。
先生、それでええですか。
ええもなんも。
そんなんええわけないやん。
車は二度壊された。
時間は取られ、煩雑な手続きに追われた。
お金も飛んだ。
無駄な労力を費やした。
予約していた患者さんはあれ以来こなくなった。
信用を失ったかもしれない。
なにひとついいことなんてない。
ああ、どうしてこんな理不尽な目に遭わねばならぬのだ。
理解できない。
まったくもって理解できない。
なにかがおかしい。
なにかが歪んでいる。
だって、この間もあちこちでいろんなものが壊れていくだろ。
遠い向こうでは地雷が踏まれ、
戦車にドローンが突っ込み自爆する。
空にはミサイルが飛び交い、
集合住宅は破壊され、大地がざっくりと裂けた。
寒々と凍てつく空気は怯えたように顫え、人々が路上で暖をとりながら頭を抱えている。
かたやここは、安全で幸せな世界だ。
夜にはネオンがきらめき、きれいで華やかな世界が広がっている。
だが、きっとフェイクだ。
この国の安全神話は崩れた。
見知らぬ男たちが勝手に押し入る。
バールを振り上げ、襲いかかる。
昨日はマクドで人が刺された。
三宮でも人が刺された。
繁華街にある病院が放火されたのは三年前。
電車に飛び込む人だって後をたたない。
ドンキの下ではオーバードーズで失神している。
それでもネオンの下には蛾誘灯にいざなわれるように若者が次々と集まってくる。
安全で、綺麗?
それってもう過去の話じゃないの。
だって令和って響き、今のこの国に似合わないじゃん。
地方へいけば、木々が切り倒され、剥き出しになった山肌に太陽光発電のパネルが黒々と覆い尽くしている。
昔、澄みきっていた外気はいまや排気ガスや浮遊するマイクロプラスチックに塗れ、すぐ近くの工場からはPFASが垂れ流されてもそ知らぬ顔。
遠くの建屋から放出されたのは処理水なのか汚染水なのか。
いまだ要領を得ないまま、トリチウム入りの排水が海水へ放出される。
ああ、原子力はありがたいよ。
ネオンで街を煌びやかにしてくれる。
街灯が夜をあんなに明るく照らしてくれるんだ。
でもさ、
東電の電灯って、真実は照らさないよね。
だって壊れた建屋の中は依然、闇のままだもん。
ああ。一体、どこまで壊す気だ。
SDGs? COP21?
おいおい、口先、小手先だけの対策じゃないよね。
えっ。
まさか官民そろってのグリーンウォッシュか。
眺めていると、そんなふうに勘ぐりしたくもなる。
そうこうするうちに世界は最後の切り札を切った。
出されたトランプのカードはまたまたあいつだ。
分断が加速する?
世界中のあちこちに裂け目が広がっていく?
これが遠い海の向こうの話であればまだいい。
だが、対岸の火事どころではもはや済まされそうにもない。
なぜなら、猿真似したかのように、
選挙で呆れた様をさらけだしたのはこの国も一緒だ。
ありゃひでえもんだった。
あんな小さな隣県だって、荒れまくったし。
昔、ハンカチ王子というイケメンがいて、日本中に熱狂的な騒ぎが起こった。
今度は同じ苗字の、おじぎ王子に人々が熱狂しだした。
知事選だろ。
なにをそんなに騒ぐ。
おじぎなんて、しつければ、猿でもできるさ。
ほら、あっこの次郎を見てみろ。
竹馬しながら上手におじぎしてみせる。
心を荒らすな。
人を惑わすな。
テレビに向かってつぶやく間も、
メリメリ、バリバリとなにかが壊れつづける。
大地に、空気に、亀裂が走る。
その様はどんどんどんどんと拡大していき、SNSの風にのって世界中へと拡散しつづける。
大地は揺れ、水は汚れ、空気は濁る。
動物たちが棲家を追われ、逃げ惑ったあげくに人界に現れ、銃殺される。
人の命も大地も空気も、あれゆるものがこの瞬間にも壊れていく。
自分さえ良ければどうでもいい。
そんな思考など、もううんざりだ。
かと言って、壊れゆく光景を悲しみにくれて眺めることもできず、
されど、壊れるゆく様を手を叩いて笑って喜ぶ人間の側にも立てず、
自分の立ち位置をいまだ見つけられず、戸惑ってなにもしない自分がいる。
できることといえば、
せいぜい群れから離れて、
きょとんと目前を呆けたように眺めているだけだ。
ははは。
苦笑いでもするか。
さあ、今もこの目の前で壊れてゆくものはなんだ。
自然か、街か。
大地か、空か。
森か、海か。
物か、人か。
脳か、心か。
いや、待てよ。
あいつか、俺か…。
まさか、俺なのか。
むしょうにムカついて落ち葉を踏み潰して歩いた。
風は冷たい。
時折、荒ぶる風が吹き寄せる。
木々からは力尽きた枯葉がひらひらと舞い、地面には積みあがった遺体のように次々と溜まっていく。
むしゃくしゃするまま、
落ち葉を踏んで踏んで踏みまくった。
がさがさ
ごそごそ
ぐしゃぐしゃ
ぐちゃぐちゃ
ただただ枯れ葉を壊し続けた。
踏んで、踏んで、踏みにじった。
踏みつけて、踏みつけて
あちこち踏み回った。
それでも釈然としない。
目の前で人が壊れた。
勝手に人が壊れた。
自分に非はない。
けれど、あの人を壊したのは俺かもしれない。
がさごそ
ぐしゃぐしゃ
がさがさ
ごそごそ
踏み潰す
必死で押し殺していたものが音とともに瓦解していく。
お前を踏みにじった音はこの音か。
お前が聞いている幻聴はこの音か。
しばらく歩き続けると、
切り開かれた千里の丘に出た。
芝生の広がる丘の向こうに
一本のタイワンフウが見える。
目が醒めるような赤だ。
その木はぐんと空に向かって聳え
秋空に赤く燃え上がっていた。
あのひとは完全に壊れた。
鍵付きの隔離病室に入った。
安心しな。これで終わりだ。
あの人に煩わされることはもうない。
わかってはいる。
二度とないんだ。
だけどむしゃくしゃする。
怒りは冷めない。
燃え上がる赤を見つめていると、
あのタイワンフウの向こう側に
リノリウムの冷たい床が見える気がして、胸がきりきりと痛みだす。
冷たい風の中に
さびしげな一人用の病室がうっすらと浮かび上がる。
病室に漂うオスバンの消毒くさい匂いが
冷たい風に紛れ込み、鼻腔をつんと刺してくる。
あの赤の向こうは真っ白なのか。
無機質な壁に囲まれ、何もない。
壁や床には消毒液の匂いが染み入り、
いやでもあの人はそこから逃げることもできない。
きっとこのまま薬漬けになる。
もう二度と戻ってこない。
これで終わりだ。
煩わされることはもうない。
だけど、釈然としない。
どこかすっきりしない。
私はあの人を地獄に突き落としたのか。
そう思うと、心が赤い火玉になって焦げていく。
目の前に聳え立つ、焦げ付いた赤のように秋空がさめざめと燃えていく。
落ち葉を踏みしめた。
カサカサと音が鳴る。
何度も落ち葉を踏みつける。
ほんまに私はあの人の心を踏み躙ったのか。
苦痛だ。
苦痛でしかない。
秋にこんな気落ちを覚えたのは初めてだ。
こんな不快で、理不尽で、苦痛の秋なんて初めてだ。
だが、秋でまだよかった。
冬だったら哀しすぎる。