4月中旬の日曜日。
とても天気が良かったので、朝早くから散歩に出かけた。
桜はだいぶ散り、あちこちに新緑が溢れ始めている。
気温は良。
風も心地よい。
なんと最高の日曜日。
気持ちが自然とうきうきしてくる。
歩いていると高架を走り去る電車が見えた。
晴天に駆け抜けるマルーンの車両がカッコよい。
そういや、電車に長いこと乗ってないな。
この数年、コロナのせいでどこにも行ってないもんな。
梅田にも出かけてないし。
もう、そろそろ頃合かもね。
三回目のワクチンも打ったし。
思い切って、ちょっと遠出でもしてみよっか。
よし。
改札口に向かう。
でも、行きたい場所など特段ない。
切符売り場の上に掲げられた路線図を見上げ、ふむと思案する。
「さて、どこいくべ?」
すぐに答えが出てこなかった。
そんな時には、やっぱりあのフレーズ…。
「そうだ、京都へ行こう!」
目的地は乗車してから決めればいいさ。
乗り込んだ特急はなかなか混んでいた。
仕方なく通路を歩いて行くと、ありがたいことに四人掛けの通路側の座席がひとつぽつんと空いていた。
見れば、隣は20代くらいのお姉さん。
ラッキーじゃないか。
ネーちゃん、京都まで一緒にいこか。
でへへへ。
にやついた顔で彼女の横にスッと腰を下ろすも、発車して、すぐに異変に気づいた。
横のお姉さん、本を読みながら、休むことなく、こほん、こほんしてる。
小さな空咳をずっーと。
必死に堪えようとしているけれど、無理みたい。
かわいそうに。
ちょっと心配だな。
話しかけてみよっか。
あんた、花粉症か?
喉、痛いの?
ふーん。
飴ちゃん、やろか?
これ?
りんご飴や。
ちがうって? そういうことを聞いているんじゃない?
溶けてる?
そりゃ、しゃーないわ。これ、だいぶ前からカバンに入ってるやつやもん…。
いつくらいから?
うーん、かれこれ三年くらいになるかな…。
いらない?
なんで?
いらないものはいらないから?
なんでぇ。
リンゴ、じゅうぶん熟成してんで。
いやだって? ねばっと包装袋にはりついてるって?
大丈夫、大丈夫。
食えるって。
え、いらん?
遠慮せんでええって。
ほら、あーんしてみ。
ほれ、ほれ。
なーんて声かけたら、迷惑がられるだけでなく、ここにいる大勢の乗客を全員敵にするな。
その上で、わし、ぽいっと鉄道警察につまみ出される…。
あかん。
想像しただけで空恐ろしくなってきたわ。
とにかくあかん、あかん。
それだけはやめとこ。
じゃ、どない声かけよ。
どっしよっかなぁー。
私が悶々と悩んでいる間も、お姉ちゃん、ずっと隠すように小さな咳を続けている。
そして、はたと気づいた。
おい、待て。
それで、ここだけ席が空いていたのか…。
つまりは…空咳ゆえの空席。
あかん、あかん。
悠長にそんなダジャレを言うとる場合ちゃうわ。
わし、明日、仕事あんねん。
こんなとこで統計に現れない濃厚接触者になっとる場合ちゃうぞ。
急に怖くなってきて、席を立ち上がった。
とりあえず外気に触れよっと。
ありがたいことに次にきた準急は、乗客が少なかった。
緑の長椅子を独占するように腰をかけて思う。
やっぱり、コロナの見えない影に怯えている自分がまだいるんだな。
ということは、遠出するほどの心の準備がまだ自分にはできていないってことか。
かと言って、もう高槻。
次は上牧。
今さら帰る気にもならず、されど終着の河原町までいく気もならない。
はああ。
フレーズ頼みはこれだから困る。
「そうだ、京都に行こう」。でも、結局「京都のどこ行こ?」ってなるもん。
さてさて。
どうしたら良いものか。
乗客用の長椅子に一人ぽつんと取り残されたように座って考えてこんでいると、ふと前に「ごりやくさん」という番組で賀茂別雷神社の特集していたことを思い出した。
別名、上賀茂神社。
世界遺産だと言ってたな。
厳かな雰囲気の境内だった。
スマホで調べると、京都最古の神社で、雷の強い力で厄を祓う、有名な厄除けの神様らしい。
さすがだ。
なんだか急に、上賀茂から「カモ〜ン」と呼ばれている気がしてきたわ。
すぐにGoogleで行き方を検索し、烏丸で地下鉄に乗り換える。
降りた北大路の街並みを見て、びっくり。
とても整然としている。
京都ってこんなに広々としてたっけ。
普段から大阪のごちゃごちゃした街並みに慣れているせいか、まるで見当がつかない。
とりあえず道路脇にあった地上図を頼りに、賀茂川を目指す。
河川敷はのんびりしていた。
とてものどかだ。
堤防の並びには、風情あふれる住宅が続き、向こうには街を見下ろす山々が連なっている。
やはり盆地だな。
山が迫って見える。
なんてことを思いながら、北山大橋、北大路橋とくぐって、お目当ての御薗橋。
右手を見ると、目印の大きな赤い鳥居がみえた。
その向こうに綺麗な芝生が広がっている。
鳥居横では馬が数頭繋がれ、柵越しには観光客。
何かの催しのようだ。
掲示板に貼られたポスターを見ると、賀茂競馬だって。
どうやらゴールデンウィークに開催される行事らしい。
ふーん。
その練習か。
そのまま鳥居をくぐって歩き続ける。
なんとなく来た道を振り返ると、鳥居の向こうからゾロゾロと厳かな正装の行列が現れた。
先頭には袴と白無垢の新郎新婦。
長い正装行列がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
前を歩く新郎新婦は神妙な顔つき。
緊張を隠せないでいる。
けれど、春の穏やかな日差しのおかげか、とても華ぎ幸せそう。
そんな二人の姿を眺め、私は新郎に我が身をふと重ねてみる。
君はまだ知らないんだな。
幸せが今だけと言うことを。
若人よ。
伝えておこう。
君の横を歩く、そのうるわしき新婦の真実を。
その白き角隠しの下にはね、本物のツノが生えているんだよ。
嘘じゃないさ。
本当さ。
流行りのフェイクなわけがない。
だって私は知っているんだ。
そのツノの怖さをね。
この身に突き刺さる痛みと言ったら、想像するだけで今も身震いしたくなるほどさ。
そうさ。
君も、日頃の行いには気をつけるが良い。
でないと、危険だ。
さあ、耳穴かっぽじって聞きな。
いずれ、君は餃子と一緒にホットプレートで踊り焼きにされる。
泣いてもダメだ。
喚いても無駄だ。
土下座したって許されやしない。
君は、熱き鉄板の上で、カンカン娘のようにひたすら踊り続けるしかない。
そんな慌てふためく君を見て、子供たちだって大喜びだ。
だはは。
めでたい、めでたい。
正装の行列を微笑ましく眺めながら、そそくさと行列に背中を向ける。
第二の鳥居をくぐり、境内に入ると「おっ、ここにも」
新郎新婦が、こっちにもあっちにも。
いるいる。
おるおる。
映像でも見た、有名な立砂の前では、白無垢に包まれた新婦を囲み、友人たちが記念撮影を行っていた。
ここでも、まだツノの存在を知らない新郎が、和やかな顔つきで、はしゃぐ新婦たちの姿を眺めている。
今日は、なんというハレの日なのだ。
いずれ快晴は曇天へと変わるというのに。
ひどい日には、土砂降りだ。
雷だって鳴り響く。
もうすぐおうちは落雷のドンチャン騒ぎだ。
いやいや、めでたい、めでたい。
さっ、いこ、いこ。
邪魔にならないように歩きながら、小さな祠を拝んで回る。
橋を渡り、楼門をくぐる。
本殿へと続く階段が見えた。
拝殿前には小さな列ができている。
では、順番待ちをして、祈祷。
しっかりとお祈りしておこっ。
なんとか頑張っていけますように。
ちゃんと生きていけますように。
世界が平和でありますように。
そして名残惜しそうに周囲を見渡しながら、拝殿場を後に。
そのまま階段を降りようとして、「えっ!」
階下へ出した右足が、スッと感触もなく抜けていった。
そのまま、ずでん。
石段から踏み外した右足が、ずるずると滑る。
気づけば、見事なまでに最上段の石畳に尻餅をついていた。
肘も強打。
頭は打たなかったけれど、滑り落ちた右足のせいで、自分でもびっくりするほど仰向けに倒れ込んでいた。
見上げた眼前には、とんでもなく澄み渡った青空。
青い。
青すぎる。
しばし、呆然。
驚いた祈祷客が寄ってきて、「大丈夫?」と声をかけてくれるも、こちらは恥ずかしだけ。
「大丈夫です。大丈夫です」
本当はお尻が痛くて仕方がなかったけれど、慌てて立ち上がるしかない。
お尻をパンパン払いながら、逃げるように階段を降りた。
はああ。
まさか拝殿前で尻餅つくとはね。
それも、見事なまでにすってんころりと。
なにが厄祓いじゃい。
大厄やないか。
神様に日頃の行いを見透かされたのだろうか。
今日は阪神と一緒に反省会だな。
気持ちがズドンと落ち込むのを覚えながら「早く帰ろ」と二の鳥居をくぐった。
芝では競馬の練習が始まっており、馬を鎮める乗り手たちの姿があった。
観光客が見守る中、一人の乗り手が暴馬から振り落とされるのが見えた。
放り出された男性が竹の柵に腰を強く打ち付け、痛そうに地面にうずくまっている。
きっとこの人も日頃の行いが悪いんだな…。
同類、憐れみの思い…。
ハハハ。
飯でも食お。
「昨日、賀茂別雷神社へ行ってきた」
「どこですか、それ」
「京都。世界遺産」
「へえ」
「そんでな、わし、コケた。拝殿前でびっくりするくらい見事に尻餅ついた」
翌日、神社でコケたことをスタッフにカミングアウトしてみた。
「わし、いよいよ神様に見放されたかもしれん」
「そんなことないですよ」
温暖さんが慰めてくれる。
「神社にお尻をつけて、逆に運をつけてきたと思えばいいんですよ」
「おお、なるほど。そういう考え方もできるか。いやぁ、ありがとうありがとう」
気持ちが一気に立ち上がったのも束の間。
ツンドラ君が私のいたいけな心を粗雑に踏みにじってくる。
「へへ。なわけないっすよ。日頃の行いっすよ」
嬉しそうだ。
おかげで月曜から、また心がズドン。
抜け出せそうにない深いぬかるみへ、どっぷり沈み込んでいく。
お前、今度、暗闇で頭抱えてうずくまることになっても知らんからな。
ふん。
と、まあまあ。
でもまあね。
あれだよね。
外出にはまだ早かったということで。
軽はずみに「京都へ行こう」などと思ったのがいけなかったのだ。
他人はどうであれ、自分はまだ気持ちが追いついてなかったということ。
今度こそ本当に神様から見放されるかもしれん。
それよりも、とにかく。
日頃から行いだけはしっかりしておこ。
見直すべきは見直して。
そう学んだ、日帰り京都旅でありました。
2022年05月05日 22:02