へえ~、それって楽器だったんだぁ?
秋である。自転車を漕いでいると、あちらこちらで金木犀の香りが鼻をくすぐる。
「いい時期ですね。先生、釣りには最適な時期じゃないですか?」
ええ、そうかもしれないっすね。
でもわかんないっす。
もう行ってないから。
だって、今はまったくタコ釣りに心がわかないしね。
行っても結果分かってるし。
だいたいさ、わざわざ出かけても、堤防で釣り竿垂らして、ただフジッコの赤い看板を眺めているだけ。
そんな私をゆらゆらタコ君がへらへら笑っているだけ。
そうなんだよ。釣りは私には向いていないんだよな。
最初からそんなことはわかっていたんだけどさ。
だって、餌木で魚を釣ろうなんてこと自体が間違ってるじゃん。
本気で釣りたければ、生臭いのを我慢してでも餌釣りをすればいいんだよ。
それが本来の釣りのやり方なんだからさ。
じゃあ、太極拳は?
えろう、すんまへんな。
わし、こっちも、もう飽きてんねん。
だって、腰痛あらへんし。
えーえー、だから成龍拳も未完成のままなんですぅ。
だいたい、本気でジャッキーになろうなんてこと自体が間違っていたんですぅ。
スターになるなら、もっと若い時期に考えるべきだったんですぅ。
今更、香港スターに憧れるなんて、まったくぅ。
ほんと俺ってばかだなあ。
そんな何事も中途半端で終わらせようとして、いつも何事も身につかないままの人生を繰り返している私。
何もすることなく、最近は仕事後、テレビばかり見ている。
ああ、バラエティーはおもろいなぁ。
笑っていれば、いやなこと忘れられるし。
芸人たちをみていると本当に生き生きと楽しそうだ。
サンマさんはすごいな。ほんまおもろいな。
そういえばM-1で活躍した芸人たちもかなりの勢いだな。
ミルクボーイもかまいたちもペコパも半端ない活躍だ。
M-1という舞台で躍動するとこんなに人生が華やかに変わるものなのか。
表情なんかとても明るいし。
そうかぁ。
M-1かぁ。
芸能界で売れっ子か。
いいな。羨ましいな。
そして、そのとき私は、はたと気づきました。
もしかして、私は、この世界にこそ、あこがれを抱いていたのではないか。
いまこそ、年齢なんて忘れて、この世界にダイブするべきではないか。
そうだ。何事もチャレンジすべきだ。
年齢なんて関係ない。
やればできると長友さんや本田さんが言っていた。
でも、一人では漫才はできないし、出場さえ叶わない。
ならば、相棒は。
誰かいないか。
ナマハゲならこう言うだろう。
おもろい奴はいねぇーが?
いや、実はもしかしてすぐ近くにいるんじゃねえ?
あいつ、性格冷たくても、おもろいからな。
翌日、ツンドラに話しかける。
「OK、ツンドラ。一緒にM-1出へん?」
「はあ?」
あんた、またいきなりなにゆうてん? とばかりに冷たい視線でぎろっと見られる。
「あんな。M-1でてっぺんとったらどうやら人生変わるらしいで。2位でも3位でも人生変わるんやで」
「あ、そう」
「なあ、一緒にでえへん?」
「でるわけないじゃないですか。巻き込まんといてください」
「おもろいで、きっと」
「そんな簡単な世界ちゃいます」
ツンドラは調剤しながら、冷たい視線。
すっと視線をそらし、それ以上、まともに相手にさえしてくれへん。
その段階で、すでにツンドラの背中が氷山のごとく大きく目の前に立ちはだかっていました。
なんて冷たい背中なんや…。
そのときの私が受けた悲しみときたら・・・。
皆様にはわかってもらえるでしょうか。
気づくと私は悲しみで涙ぐんでいました。
何度彼女を見つめても、背中という絶壁が目の前にそびえているのです。
「M-1なんてやめとき」
あいつは、そうやって、断崖絶壁から私を奈落の底へとたたき落したのです。
私は、へなへなと床にへたり込みました。
そして、辺りを見回しました。
周囲はまるで暗黒に支配されているように映りました。
頬に当たる風は冷たく、空は真っ黒に包まれています。
誰もいません。
そう。
夢が破れた瞬間です。
あいつが私の夢を絶ったのです。
それほどM-1という壁は高く、高尚だったのでしょうか。
もうだめや。
憧れや夢で生きていけるほど現実は甘くはありません。
そう思うと、もはや生きているのが苦痛で仕方がありません。
立ち上がれないほどに打ちひしがれている自分に気づきました。
なぜだ。教えてくれ。
なぜ、一緒に出場してくれないのだ。
では、聞こう。
汝にとって希望とはなんだ。
生きる喜びとはなんだ。
そして、私は、これからどうやって生きていけばいいのだ?
私にはもう頼る人もいないのだぞ。
なすすべさえないのだ。
これから、何を心に秘め、そして何を希望や夢と定め、この代わり映えのない日々を生きていけばいいのだ。
ああ、教えてくれ。
ここは地獄なのか。
それとも絶望という現実なのか。
私はこれからという長い年月をこのような牢獄で過ごしていくのか。
ああ、わかっている。
心は風雨で腐敗した木板のごとくギシギシと軋み、幻聴が聞こえ、耳鳴りはやまない。
まるで恐ろしい雷音がいつまでも鼓膜に鳴り響いているかのようだ…。
Idreamed a dream.
世界は暗黒に包まれ、恐るべきトラが今にも襲ってくるような恐怖…。
一筋の光さえ差し込まない世界。
スーザン・ボイルの哀しき歌声が今にも聞こえてきそうだ。
そして絶望で打ちひしがれた心は私に病をももたらしました。
もう、食べ物さえ喉元を通らない。
あれほど立派につき出ていたおなかも、今はもう見る影さえありません。
もう心も体も、げそげそだ。
ほっぺただって、こけこけだ。
毎日を仕事だけで生き、笑うこともままならず、目はどんよりと曇り、唇は血の気を失って青ざめている。
体は今にもよろけて倒れてしまいそう。
毎日を絶望と困惑の日々をすごすばかり…。
でも…。
本心を言えば、それでも私は打ちひしがれた思いを打破したかった。
ただそれだけのことだったのです。
ある日の昼休み、泣きながら豊南市場に和菓子を買いに行きました。
そしてそこで思わぬ光景を目にしたのです。
老婆が市場でピアノを弾いていました。
ピアノ…。
いつの間に、こんなところに…。
誰が何のために。
市場にピアノなんて、な~んて斬新…。
その刹那でした。
暗く凍り付いた私の胸にピアノにまつわる様々な思い出がよみがえってきたのです。
よう子ちゃん……。
ああ、よう子ちゃん。
いつの間にか、老婆のあの丸まった小さな背中に、初恋のよう子ちゃんの姿が重なっていたのです。
朝の合唱の時間や音楽の授業。
いつも先生の代わりにオルガンやピアノを弾いていたよう子ちゃん。
窓から差し込む光を浴びた、あの子の白い横顔。
よう子ちゃんはピアノを弾きながら、いつも柔らかな笑みを浮かべていました。
ピアノを弾く、細く長い、うつくしい指。
こんな素敵な女の子と一緒にいたいな。
一緒にピアノを弾きたいな。
憧れと羨望のまなざしで、私はいつも口をぱくぱくしながらよう子ちゃんを眺めていました。
そのよう子ちゃん。
小学校卒業と同時に引っ越してしまい、夢はかないませんでした。
よう子ちゃん。
ああ、よう子ちゃん。
そのとたん、私は雷に打たれていました。
なにもかもが一瞬だったのです。
気づくと、老婆が奏でるサウンドと私が見事なまでに融合し、一体化していたのです。
音楽と自我とのシンクロニシティ。
誰にもこの思いとインスピレーションは伝わらないことでしょう。
そう。
きっとジョン・レノンとオノ・ヨーコもこのような経験を共有し、二人は結ばれたのです。
えっ。もしかして。
俺はジャッキーではなくジョンだったのか?
俺は香港スターではなく、リンゴ・スターを目指すべきだったのか。
ごめん、ヨーコ。
いや、よう子。俺は気づくのが遅かったようだ。
いやいや、まだ遅くはないぞ。
そういえば、家に20年ほど前にもらったおもちゃのキーボードがあったけ。
そうだ、あれでも引きずり出して今日から弾いてみよう。
楽譜も読めない。音楽のセンスもまるでない。でも、いつかここで、この市場ピアノであの可愛かったよう子ちゃんのようにきれいな音色を奏でよう。
そしたら、きっと市場で働く人たちも、私の醸す音色に合わせて歌いだすに違いない。
青空で、小鳥たちがさえずるように。
清らかな風の音色に合わせ、リスたちが小枝の上で踊るように。
私はまるで雷に打たれたように、スキップをし、小躍りしながら職場に戻りました。
その時の感激と喜びといったら…。
これを読んでいる皆様方にはきっとわからないことでしょう。
これは希望と夢に満ちた物語なのです。
「俺、ピアノを始めようと思う」
「はあ?」
案の定、アホなうちのスタッフ2人は口をぽかんと開いて私を見ています。
なんでそんな顔をするのだ。
わからんのか。
ピアノだよ、ピアノ。
すべての人々の心を惑わせる旋律を弾くのだ。
そして、すべての人々に希望と夢を届けるのだ。
「先生、楽譜読めるの?」
「無理」
でもね、人間やればできるんだ、って長友さんと本田さんが言っていたよ。
私は優しく彼女たちを見つめます。
あらゆる人々を包み込むような、すばらしく柔和なほほえみを浮かべて。
「先生 どうせすぐ飽きるでしょ」
「えっ。なんのこと。そんなことはないよ。絶対にないよ。たぶんないよ」
そんなやりとりをしながら、実はツンドラさんが9年もピアノを習っていたことをはじめて知る。
えー。それどころか、ウクレレを弾くこともできるなんて。
なんて、こったい。
実は、君はよう子ちゃんみたいにすごい人間だったのか。
そんな大事なことをなぜ君は履歴書に書かなかったんだ。
ピアノ歴は、学歴や職歴より大事なことだぞ。
だってあのよう子ちゃんが弾いていたピアノだぞ、ピアノ。
はやく言っておいてくれ。
バンドができるじゃないか。
「頼む。教えてくれ。オレに楽譜の読み方を。そしてピアノの弾き方を。俺はあの頃のよう子ちゃんに少しでも近づきたいんだ」
「まあ、いいですけど……」
私の熱意がようやくこの冷酷な心の持ち主にも伝わったらしい。M-1には興味さえ示さなかったのに、音楽には賛同してくれた。
さすが偉大なる音楽の力。
念のため、近くでくすくす笑っている温暖さんにも尋ねてみた。
「なにか楽器やってた?」
「いいえ」
「そう。じゃあ、みんなでバンドをするから、したい楽器ある?」
「私はペットしたいです」
「はあ? ペット?」
一瞬、何の楽器かわからず、問い直すと、温暖さんはいつもの柔和な笑みを浮かべて言いました。
「ええー、分かりませんか。ペットボトルですよ、ペットボトル。あれ、すごくかっこいいじゃないですか」
ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってよ、お嬢さん。
一体、君は何を言い出すのだ。
なんのことだかさっぱりわからんぞ。
最近、彼女の中の、無添加・無着色のナチュラル素材の含有量が、以前にましてがぜん増えてきてないか。
ツンドラと一緒に目を点にして唖然と彼女を見つめていると、彼女はとたんに顔を真っ赤にしました。
「ごめんなさい……トランペットの言い間違いでした」
ははは。
もう、遅いぞ、温暖よ。
聞いてしまったんだ。
手遅れなんだよ。
もう決まったんだよ。
君は、ジャズメン・ユリノキトリオを組む際、ペットボトラーとなるのだ。
私がピアノ。
ツンドラがウクレレ。
そして、君はペットボトル。
こんな面白い楽器を君がどう演奏するのか、今から超楽しみだ。
吹くのか、噴くのか、転がすのか。
それともたたくのか、シェイクするのか、ひたすら潰し続けるのか。
その奥義とやらをとくと見せてもらおうではないか。
ははは。
楽しみだ。
ほんま楽しみだ。
絶対、君と一緒にやるためだけに一曲だけでもピアノで弾けるようにしてやる。
ぜひみなで一緒に音色を奏でよう。
ただ、このゆかいな楽しみのためだけにな。
へへへ!!
ワハハ!!
そして来年は君と一緒にM-1だ!!
2020年10月03日 09:59